祇園祭
について
祇園祭の由来
毎年7月の当社の祇園祭は「天王祭」とも呼ばれ、江戸時代の『下野国誌』に「当国第一の祇園会なり」と記される歴史と伝統ある祭礼です。
祇園祭のそもそもの起こりは、平安時代の貞観11年(869)に当時の都であった京都に疫病が流行したことにより、八坂神社の神輿を担いで病魔退散を祈願したのが始まりです。

その京都の八坂神社から御分霊を迎えた須賀神社で長年続いてきた祇園祭は、郷土の平安と無病息災を祈る大祭で、近年まで重さ2トンとも言われる高重量のケヤキ製の神輿(明治8年奉製)が渡御されていました。
令和5年の祇園祭で軽量化されたヒノキ製の「令和神輿」がお目見えし、祭の新たな主役となりました。
皆様にもぜひ小山の歴史・伝統ある神事にご参加いただき、その意気込みを感じてもらえればと思います。
神輿の掛け声
須賀神社の祇園祭には、古くから神輿を担ぐ時の独特な掛け声があります。行者(担ぎ手)が声を揃え、気持ちを一つにして神輿を担ぎます。
1. キミョーチョーライ(帰命頂礼)→「ナン (南無)」
神輿を担ぎ上げる時に、先達が大きな声で「須賀神社キミョーチョーライ」と唱えます。これは『須賀神社に身命をささげてお仕えいたします』という意味で、これに行者が「ナン (南無)」と呼応し、自分達も誠を捧げてお仕えします、と返して神輿を担ぎあげます。
2. アンゴステンノウ(南無牛頭天王)
神輿を担ぐ時、行者たちは「アンゴステンノウ」と独特の掛け声をかけます。須賀神社の神様である素盞嗚命(スサノオノミコト)が、かつては牛頭天王(ごずてんのう)と呼ばれていたことに由来します。昔は「南無牛頭天王(ナムゴズテンノウ)」と唱えながら神輿を担いでいましたが、時が進むにつれ掛け声が「アンゴステンノウ」に変化し、現在に受け継がれています。
祇園祭開催
スケジュール
2025年スケジュール(雨天決行)
注連下式
例大祭式
令和神輿・女神輿の遷霊祭
( みたまうつし)
各町神輿の遷霊祭(みたまいれ)
各町神輿仮殿祭
みそぎ ー思川ー
神輿渡御の発輿祭(境内)
宮出し(おまつり広場を渡御)
宮入り
各町神輿の還霊祭(みたまかえし)
令和神輿・女神輿の還霊祭
神輿の担ぎ手
祇園祭屋台
の歴史
祇園祭屋台

須賀神社の祇園祭は、戦前は神輿渡御の他に、付け祭として「小山屋台」と呼ばれる彫刻屋台が華やかに繰り出され、舞や歌舞伎などの演出で祭を盛り上げていました。
付け祭は地域の氏子町民が主体となって行われ、各町は屋台の建造や演芸の奉納において、伝統と技を融合させ、その豪華さを競い合いました。
当時、小山の稲葉郷・上町・中町・下町・横町の5つの町がそれぞれに屋台を所有し、地域文化を支えていました。小山屋台の大きな特徴は、「本屋台」と「付屋台」の二台を並べて設置する点が挙げられます。この独特な構造は、広い踊りの舞台としても活用され、彫刻屋台としては非常に珍しい形態となっています。

残念ながら中町の屋台は昭和6年に火災で焼失し、上町・下町・横町の屋台は、部材の一部を残すだけとなってしまいましたが、稲葉郷の屋台は比較的保存・残存状態が良く、現在でも組み立てることができます。
過去に平成14年の祇園祭の時に、稲葉郷屋台が須賀神社の境内に組み立てられ、令和6年の11月には須賀神社会館の広間に期間限定で展示しました。
小山の彫刻屋台は地域の歴史を色濃く残しており、その芸術的価値も含めて再び皆様にお披露目できるよう取り組んでまいります。