須賀神社について

須賀神社の
歴史

小山市に鎮座する須賀神社は、1080年以上の歴史を誇る由緒ある神社です。
下野国の押領使であった藤原秀郷が、天慶3年(940年)4月に京都の祇園社(現在の八坂神社)から素盞嗚命(すさのおのみこと)の御分霊をおまつりして須賀神社を創建しました。

当初は小山の北山(現在の小山市中久喜)に祀られましたが、小山城の築城に際し、城の鎮守とも仰がれ、平治年間(1159~1160)に現社地に遷座されました。以来、小山六十六郷(小山市全域・野木町・下野市の国分寺と下石橋・結城市小田林地区)の総鎮守と仰がれています。

須賀神社

須賀神社は徳川家康ゆかりの神社でもあります。慶長5年(1600年)7月、家康は上杉景勝を討つべく会津に向かう途上、小山の地で石田三成挙兵の報を知り、急遽味方の諸将を集めて当社境内にて軍議を開き(小山評定)、関ケ原に向かうことを決めて須賀神社に戦勝を祈願しました。戦いに見事に勝利し天下を治めたことから、家康は小山の地内の五十一石の土地を須賀神社に寄進しました。

家康の崇敬を受けたことから、万治元年(1658年)には日光東照宮本殿の縮尺で作られた朱神輿(あかみこし)が徳川家より奉納されました。

徳川家からの朱印状(非公開)

御祭神

須賀神社 御祭神の三神

素盞鳴命(スサノオノミコト)

日本で最も高貴な三貴神の一柱であり、ヤマタノオロチを退治した神様として有名です。
[御神徳・御利益]病魔退散 農耕 殖産 厄除開運

大己貴命(オオナムチノミコト)

大国主命とも称されております。素盞嗚命の子孫神で、日本の国造りを行いました。
[御神徳・御利益]縁結び 招福 商売繁盛 国土開拓

誉田別命(ホンダワケノミコト)

応神天皇、八幡神とも称されており、第十五代天皇として日本を大いに発展させました。
[御神徳・御利益] 学芸、武運長久

素盞鳴命

社宝

朱神輿

朱神輿

朱神輿は、江戸時代初期の万治元年(1658年)に竣工され、日光東照宮本殿の縮尺で作られたことが明らかになっております。神輿の胴部には東照宮の陽明門と同様「唐子遊び」の彫刻が施されており、総国産の漆や天然の岩絵具、純金箔、水銀メッキの飾金具など、贅沢な素材が惜しみなく使用されています。この朱神輿は美術工芸品としてだけでなく、建築的にも高い完成度を誇ります。

大きさは台輪が150cm、屋根幅が188cm、高さが225cm、重量は1トンに及びます。

  • ・昭和60年から平成元年にかけて大修復され、現在は神社会館内に獅子頭、四神と共に奉安されています。
  • ・平成10年1月16日「栃木県指定有形文化財」に指定されました。
  • ・修復総責任・監督者:人間国宝 吉原北宰
  • ・ご覧になりたい方は社務所にお声掛け下さい。

蓬莱鏡

蓬莱鏡

蓬莱鏡(ホウライキョウ)は、須賀神社が所蔵する国指定の重要美術品で、銅製の鏡です。この鏡は「蓬莱山」(中国の伝説上の仙境)を象徴する文様が施されており、その繊細な彫刻と精緻な技術が当時の高い工芸技術を今に伝えています。

                                   

蓬莱鏡の鏡面は、直径23.3cmの青銅製で、中央のつまみの部分に亀甲、そのまわりに2羽の鶴をあしらった蓬莱文様が描かれ、古代の信仰や自然観が反映されています。鏡のまわりのふちには、向かって右側に「奉下野国小山祇園大明神、大木鴨太夫敬白」左側に「永喜二年丁亥卯月吉日、願主敬白」と銘文が刻まれています。光を反射することで魔を祓うと信じられ、神聖な儀式や祈祷に用いられたと考えられています。美術品としての価値だけでなく、当時の人々の信仰心や美意識を知る上でも貴重な文化財です。

国指定重要美術品 ※非公開

境内図

境内図

境内末社

境内末社
末社名 ご祭神 ご神徳
天満宮 菅原道真命(スガワラミチザネ) 学問の神さま
三峯神社 伊弉諾命・伊弉冉命(イザナギ・イザナミ) 国生みの神さま
八雲神社 奇稲田姫命(クシナダヒメ) 素盞嗚命の妃神さま
蘇民神社 蘇民将来命(ソミンショウライ) 病気退散の神さま
神明宮 天照大神(アマテラスオオミカミ) 日本で最も尊い神さま
足尾神社 国常立命(クニノトコタチ) 国土創造の神さま
工祖神社 聖徳太子命(ショウトクタイシ) 工事の神さま
稲荷神社 倉稲魂命(ウカノミタマ) 商売、稲作の神さま
浅間神社 木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ) 安産の神さま
小御嶽神社 磐長姫命(イワナガヒメ) 長寿の神さま

※当神社には、拝殿と神社会館をつなぐ「渡廊」がございます。雨天時にも昇殿参拝ができ、渡廊内はなだらかなスロープになっておりますので、車椅子での通行、身体の不自由なご参拝者様にも、ご安心してご参拝いただけるよう配慮しております。

境内建造物のご説明

                                   

藤原秀郷公顕彰碑

                                   

藤原秀郷公は下野国押領使で当神社を創始した人物です。秀郷公は天慶の乱で平将門を討伐し、その後も下野国の興隆に尽力しました。その功績を顕彰するために、秀郷流小山會の会長である小山文子氏を中心に平成4年にこの碑が建立されました。

昌木晴雄の碑

昌木晴雄は結城市健田須賀神社の杉山家に生まれ、後に当神社の沼部家の養子となりました。国漢の学を修め、武芸に優れた勤王の志士で、天狗党の一員として挙兵し、大平山や筑波山に歩を進めながら奮闘しましたが、最後は吉田村(現在の水戸市)にて敵側に斬首されました。

御神木(モミの木)

社殿の北側に樹齢800年にも及ぶモミの木の御神木があります。木が社殿の方へ傾いてきたため、昭和11年に現状のように切り詰め、覆屋が設けられ、現在に至っています。

小山朝政・義政の碑

小山朝政は源頼朝に仕え、鎌倉攻撃を図った志田義広の撃破を始め、数多くの武功を治めた御家人です。その末裔である小山義政は、下野国守護を任ぜられるなど、小山氏の全盛期を築きました。しかし、近隣諸侯との勢力争いも多く、鎌倉公方足利氏満の制止を振り切り宇都宮基綱を敗死させたことで、幕府により討伐されました。

七つ石(夜泣き石)

南参道にある「七つ石」は、もともと小山城にあった立派な庭石でした。小山城が落城してからの天正18年(1590年)、七つ石は敵方に接収され、結城氏の城庭(現茨城県結城市)に運ばれてしまいました。ところが夜になると、この七つの石が小山の地を懐かしみ、哀れげに声を出して泣いたというのです。結城の城主が早速に小山に返したところ石は泣き止んだ、と言い伝えられております。